人と香りの未来を奏でる日本香堂と香文化

日本の香文化は、推古三年(五九五年)に淡路島にとある流木が漂着したことから始まりました。島人がその流木を火にくべると、たちまち喩えようのない芳香が立ち上り、驚いた島人はその流木を推古女帝に献上し、そのとき摂政だった聖徳太子が、それを稀有の至宝「沈香」であると教えたことが我国最古の香木の記述として日本書記に残っています。

この香木「沈香」は日本の香文化の原点であり、そこから祈りの香(お線香やお焼香)、生活文化の香(薫物・練香、お香)、そして香道へと時代ととも発展していきます。

この飛鳥時代から今日まで続く、深く長い歴史をもつ「日本の香り文化」を、日本香堂は後世へと継承したいという想いから、これまで何十年にもわたり香文化の普及に力を入れてまいりました。
その一つに、外国からの観光客の方々にも香道を体験していただくことを目的に香間「暁」を開設しています。
この香間の内装デザインは、香道の形づくりが始まる室町時代、八代将軍足利義政による東山文化発生の銀閣寺の弄清亭(ろうせいてい)の香間の間取りを模して造られています。弄清亭の香間は、香間の祖型といわれ、その本格的な伝統の香間を銀座本社に再現しております。

その他に海外における活動といたしましては、アメリカ、アルゼンチン、ブラジル、フランス等においても香道のデモンストレーションを展開し、日本の香り文化を世界中の方々に紹介する活動に力を注いでまいりました。

現在でも香りに関する講演活動や書籍出版等、各方面の求めに応じて、私共の社員スタッフが精力的に支援取り組みに努めており、今後も日本の美しい文化を普及させる一助になればと考えております。

香十 高井十右衛門の家伝書(日本香堂  蔵)

信長によって時代の流れが変わる天正年間の京の都。御所御用を務め、香も扱う御道具師がありました。彼らは「香十」と名乗ります。現在東京銀座を中心に香舗を持つ株式会社香十の始まりです。
香十初代は、源氏の名将安田義定十二代の子孫といわれる又右衛門源光弘と伝えられています。

そして香十第三代政清は太閤秀吉に、香十第四代政長は家康に召され、香りの匠として名を遺す高井十右衛門が香十第八代となり、以後代々、十右衛門が襲名されることになります。

香十は光格天王に「銘香千歳」を献上、茶道藪内には「若草」、表千家には「九重」を納め、香司名跡として、第十七代まで京都にて「墨痕白張り暖簾にて御香所を掲げ守る」と記されています。

そのような歴史を引継ぎ現在に至る株式会社香十は、日本の香文化の源流を踏まえ、現代へと香の価値をお届けしています。

香十

鬼頭天薫堂

一千四百余年にわたる「香の文化」は、それぞれの時代のなかで花咲き実を結び、大切に受け継がれてきました。平安時代には、貴族社会に雅の彩りを添え、その後、 寿永二年(1183年)秋、源頼朝により相州鎌倉の地ではじまった鎌倉幕府では、「武家の香文化」として独自の発展を遂げます。たとえば、戦の前は、討たれたときに備えて、兜に伽羅を焚きこんだ武士の話が伝わっています。京都の雅やかな「公家の香文化」とはちがい、いさぎよくも凛とした武士ならではの心映えをただよわせています。このころから香を商う者が鎌倉に居を構えていたようです。室町から江戸時代へと移るにつれて、香は町人文化へとひろく浸透していきました。

明治になると、天薫堂の始祖である天才調香師鬼頭勇治郎により、香水香「花の花」とお線香「毎日香」がつくられ(明治42年)、国内シェアNo.1となりました。そして昭和60年、古都鎌倉に「武家の香文化」継承の旗を掲げ、鬼頭天薫堂が復元されました。せわしない現代生活で、多くの人々が希求する本物の薫りをお届けしたい~わたしたちは、この歴史の息づく地にしっかりと根ざし、新しき時代の新しき香り文化を育みます。

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